教会の歩み

遠く遡ること、戦国時代、フランシスコ・ザビエルから始まって幾人かの宣教師たちが日本に遣わされてきました。織田信長は聖書の教えを喜んで聞いていたと言われています。それゆえ、安土城を建てたとき、その城下町にセミナリオ(神学校)を建てることを良しとしました。実は、滋賀県には日本で最初のセミナリオが存在していたのです。

 

信長の死後、安土城と共にセミナリオも壊されてしまいましたが、その短期間にここで学び卒業した者たちもいました。その一人が、日本で最初の殉教者として数えられる三木パウロです。彼は激しいキリシタン迫害の最中でも信仰を捨てることなく、むしろ大胆にキリストを宣べ伝え、そのいのちを喜んでキリストのために献げたのです。

 

数世紀に渡って続いた鎖国とキリシタン迫害の後、宣教師たちが再び日本へ遣わされ、多くの人たちがキリストを信じるようになりました。しかし、世界大戦が始まり、軍国主義に突き進む世の流れに抗えず、日本の教会の多くが神様とキリストへの全き信仰を捨ててしまいました。けれども、その中で信仰の戦いを戦い抜き、キリストのために殉教する人たちもいました。

 

戦後、またも多くの宣教師たちが日本に遣わされてきました。その中に、私たちの群れであるアメリカ福音自由教会の宣教師たちもおられました。彼らもまた、遠い日本の地に骨をうずめる覚悟でした。関西ではまず京都で宣教が始まり、キリストを信じる人々が起こされました。宣教師から日本人へとリーダーシップは引き継がれ、宣教はさらに広がり、滋賀県にも及びました。そうして生まれたのが、この瀬田にある大津福音自由教会です。

 

およそ2000年前、イエス・キリストが語られた神のみことばは、途絶えて滅びるどころか、あらゆる言語に翻訳されながら全世界に広がり続け、この日本にも届きました。どんな迫害や苦難によっても、神のみことばを根絶することはできませんでした。みことばは生きていて、実を結びながら広がり続け、この瀬田の地にまでも到達しました。これからも、もっと広く、もっと先へ、みことばは広がり続けていくのです。


教会の使命

 聖書が神のことばであり、真理であり、人が生きるために必要ないのちのことばだと信じているため、聖書を学ぶことを大切にしています。なので、礼拝と教会学校では聖書のメッセージを語り、祈り会では聖書を共に読んで分かち合います。また、個人でも聖書を読んで思い巡らす時間を持ちます。こうして、聖書のことばによって養われて、神さまと共に生きる希望と喜びに満たされ、その幸せを地域の方々と分かち合うことが、私たちの願いです。

 

詩篇1篇1節から3節

幸いなことよ

悪しき者のはかりごとに歩まず 

罪人の道に立たず 

嘲る者の座に着かない人。

主の教えを喜びとし

昼も夜も 

そのおしえを口ずさむ人。

その人は

流れのほとりに植えられた木。

時が来ると実を結び

その葉は枯れず

そのなすことはすべて栄える。

 


牧師の挨拶

こんにちは。柳橋 宏祐(やなぎばし こうすけ)と申します。

 

生まれも育ちも滋賀県大津市です。私は五人兄弟の末っ子として生まれました。そのときは、家族の中にクリスチャンは一人もいませんでしたが、六才年上の姉が小学生の時に教会学校へ通うようになりました。それから、母も教会へ行くようになり、聖書を読み、イエス・キリストを信じるようになりました。そういうわけで、私は小さな頃から、母と一緒に教会に集っていました。

 

私の教会に対するイメージは「大家族」です。自分の祖父、祖母、父、母、兄、姉、弟、妹みたいな人たちが沢山いました。私を我が子のように大切に思ってくれる大人たちがいて、私は愛されながら育ちました。けれども、中学生頃になると、教会からだんだんと離れていき、神さまのことを殆ど考えずに生活するようになりました。

 

だんだんと虚しさや孤独感が強まっていきました。私の心は何かを求めて渇いていました。親密な人間関係に解決があると思い、それを求めましたが手に入れることはできませんでした。人間関係がうまくいかないストレスなどから、私はインターネットに依存していきました。そしてあるとき、自分は欲望の奴隷だと気づきました。全うな人間になりたいのに、自分にはもう無理だと絶望しました。人から愛される資格もないと思いました。

 

そのとき、これまで聞いてきた聖書のことばがいくつも心に思い浮かびました。

 

「ではそのころ(罪と欲望の奴隷であったとき)、あなたがたはどんな実を得ましたか。今では恥ずかしく思っているものです。それらの行き着くところは死です」

 

ーーー私の人格は腐ってしまった。もう恥しかない。聖書の言うとおりだ。

 

「わたし(キリスト)が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです」

 

ーーーキリストが来られたのは、私のような罪人のためなのか。

 

「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます」

 

ーーー神さまはこんな私を愛してくださったのか。キリストは私のために死なれた...。

 

このとき、私の心に光が差し込みました。神さまの愛と赦しを知り、神さまに希望があると分かったからです。それから、私は教会へ戻り、神さまと生きる人生を歩み始めました。

 

聖書の神さまは、世界を創造された、ただお一人の神さまです。また、神さまはこの世界を今も支配しておられ、私たち一人一人の人生に関心を持っておられるお方です。神さまは私たちの罪をさばくためではなく、罪と欲望の奴隷状態から救い出して、新しいいのちと自由を与えるために、ひとり子イエス・キリストを遣わしてくださいました。聖書にこう書かれています。

 

「この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった」

 

暗闇の中で光を求めている方へ。

ここに光があります。

イエス・キリストこそ、私たちのいのち、私たちの光です。

 


どんな人がいるの?

年配の方から小さな子どもまでいて、和気あいあいと過ごしています。この地域にお住まいの方もいれば、車や電車で集っている方もおられます。みんな違うけれど、イエス・キリストのもとでは一つです。