喜んで仕える

喜んで仕える

 

創世記18:1〜2

は、マムレの樫の木のところで、アブラハムに現れた。彼は、日の暑い頃、天幕の入り口に座っていた。彼が目を上げて見ると、なんと、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはそれを見るなり、彼らを迎えようと天幕の入り口から走って行き、地にひれ伏した。」

 

主(神さま)は、アブラハムの前に現れました。しかし、それは「三人の人」を通してでした。アブラハムはこれら三人の人を旅人だと思って、彼らを家にお迎えしようとしました。

 

18:3

「彼は言った。『主よ。もしもよろしければ、どうか、しもべのところを素通りなさらないでください。」

 

少し細かい話になりますが、「主(細字)」という言葉は、「(太字)」の言葉とは区別して理解する必要があります。3節の「主(細字)」は、神さまにも人に対しても使われる言葉です。例えば、12節でアブラハムを指して使われている「主人」という言葉も元のヘブル語では「主(細字)」と同じ言葉です。ですから、ここでアブラハムは、(神さま)と呼びかけているのではなく、三人の旅人を敬意を込めて「主よ」と呼んでいるのです。

 

18:4〜5

「水を少しばかり持って来させますから、足を洗って、この木の下でお休みください。私は食べ物を少し持って参ります。それで元気をつけて、それから旅をお続けください。せっかく、しもべのところをお通りになるのですから。』彼らは答えた。『あなたの言うとおりにしてください。』」

 

アブラハムは三人の旅人が旅の疲れをとって、元気になって旅を続けることができるようにもてなすことを申し出ました。三人はその申し出を快く受け入れました。

 

18:6〜8

「アブラハムは、天幕のサラのところに急いで行って、『早く、三セアの上等の小麦粉をこねて、パン菓子を作りなさい』と言った。そして、アブラハムは牛のところに走って行き、柔らかくて、おいしそうな子牛を取り、若い者に渡した。若い者は素早くそれを料理した。それからアブラハムは、凝乳と牛乳と、料理した子牛を持って来て、彼らの前に出したので、彼らは食べた。彼自身は木の下で給仕をしていた。」

 

家の主人であるアブラハムは妻やしもべに呼びかけて、急いで食事の用意をさせました。しかも、できる限り素早く、できる限り最上のものを用意しました。また、アブラハム自身も彼らが食べている間、ずっと木の下で給仕をしていました。

 

さて、創世記の初めには、神さまは人を「神のかたち」に造られたと記されています。三位一体なる神さまが父、子、聖霊による交わりに生きておられるように、人も交わりに生きる存在として造られました。父、子、聖霊がお互いの存在を喜び、愛し合い、与え合う関係であられるように、人もお互いの存在を喜び、愛し合い、与え合う関係として造られたのです(創世記1〜2章)。

 

しかし、人は神さまに背いてしまったことにより、神のかたちを損ない、神さまとの関係が壊れ、人と人の本来の関係も壊れていってしまいました。けれども神さまは人を見捨てることなく、「神のかたち」を回復させ、社会、世界を新しくするために、アブラハムを選びました。神さまは、アブラハムによって世界を祝福すると約束されました(創世記12:1〜3)。

 

アブラハムは普通の人でした。しかし、神さまがアブラハムを選び、アブラハムの信仰を養い育てていかれました。そして、99歳の時、神さまはアブラハムに「わたしは全能の神である。あなたは私の前に歩み、全き者であれ」(創世記17:1)と仰せられ、アブラハムの神となるという契約を立てられました。このときから、アブラハムは神の民として、神の前に歩み、全き者であろうとしました。

 

だから、3人の旅人を見たときも、最上のもてなしをしたのです。このアブラハムの「喜んで感謝して人に仕える姿」に、「神のかたち」の回復を見ることができます。アブラハムは3人の人との出会いに感謝しました。喜んで最高のもてなしをしました。アブラハムは家畜も小麦も持っているものすべて、神さまからの祝福であり賜物として受け止めていたことでしょう。アブラハムは喜んで神さまの祝福を他の人と分かち合いました。

 

この後、3人の人はソドムに行きます。そこは低地で潤っていて豊かに発展した町々でしたが、人々は神さまに対して罪深い生活をしていました(創世記18:20)。そこのすべての男たちは、3人の人を見つけると、もてなすどころから、逆に襲おうとしました。いくら物質的に豊かになっていたとしても、喜び、愛し合い、与え合うという「神のかたち」が大きく損なわれている姿がここにあります。欲望と暴力が渦巻いている世界でした。

 

今の世界はどうでしょうか?神さまはソドムのような世界を、アブラハムのように人々が生きる世界に回復すると約束されたのです。アブラハムの子孫はやがてイスラエルとなりました。しかし、イスラエルもまた神の道を外れて、ソドムのようになっていきました。けれども、神さまは約束を必ず果たされるお方です。

 

神様は愛する御子イエス・キリストを遣わされました。御子は神であられるのに、人となられ、仕えるしもべとなられ、しかも十字界の死にまで従われました(ピリピ2:5〜11)。御子は、完全な本来の「神のかたち」を体現してくださいました。私たちを罪から救い「神のかたち」を回復させるために、御子が人に仕えてくださいました。

 

御子を信じる者は、神のかたちに回復されていきます。御子の力によって必ず造り変えられていきます(第二コリント3:18)。

 

すべての人とお互いの存在を喜び、愛し合い、与え合う関係が回復していくのです。

 

教会はその回復の恵みを共に味わうためにあるのです。

 

小さな一歩をそれぞれが踏み出せますように。

 

主イエス・キリストにあって。