神の悔やみと愛

1、神の悔やみ

 

聖書を読んだことがない人でも、ノアの大洪水については聞いたことがある人が多いのではないでしょうか。これは、「神が悪と暴力に満ちていた世界を、大洪水によって滅ぼした」という話です。旧約聖書の創世記6章〜9章に、この出来事が記されています。

 

「神が大洪水で世界を滅ぼした」とだけ聞くと、神は恐ろしいお方だという印象しか持てないでしょう。しかし、大洪水の背後にある「神の心」を理解するなら、印象は変わるかもしれません。創世記6章5節から7節には、神の内なる思いが記されています。

 

は地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。そして主は言われた。『わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜や這うもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを悔やむ。』」(創世記6:5~7

 

神は、人を造ったことを悔やまれました。悔やむのは、それだけ愛情と期待を込めて人を造ったからです。創世記1章には、神の天地創造による歴史の始まりが記されていて、神が6日間で宇宙と地球とそこにあるすべてのものを造り、最後に人を造ったことが書かれています。

 

神は人を造るとき、「さあ、人をわれわれのかたちに、われわれの似姿に造ろう、こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」(創世記1:26)と仰せられました。

 

「さあ」という言葉には、これから人を造ることへの神さまの大きな期待が現れています。「われわれのかたち」とは、「神の性質を持った神の代理人」という意味で、人は神の性質を用いて、神が造られた他の生き物を、神に代わって治めていく使命が与えられました。神の性質には、理性や知性などの能力、または、愛や善などの道徳性も含まれています。このように、神は、大きな愛情と期待をもって、人を特別な存在として造られたのです。

 

もし、人が神の愛情と期待に応えて生きていたなら、世界は愛で平和に満ち溢れていたはずであり、神は人を造ったことを心から喜ばれたことでしょう。けれども、人は道を踏み外してしまいました。「地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾く」(創世記6:5)ようになってしまったのです。

 

私たちも同じではありませんか?心に悪い思いや考えが浮かんできませんか?私たちは、人へ悪口や憎しみ、妬みや淫らな思いなどが、いつも心に湧いてきます。ノアのずっと後の時代に、「そんなことない、私はきよくて立派な人間だ」と言って他人を見下している人たちに対して、イエス・キリストはこう言われました。

 

「人から出てくるもの、それが人を汚すのです。内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」(マルコの福音書7:20~23

 

イエスは「神のことば」そのものです。ノアの時代からイエスの時代、そして現代に至るまで、人の心が悪に傾く性質は変わっていないのです。どうして、人はそうなってしまったのでしょうか。神がそのようにされたのでしょうか。

 

もし最初から、神は人の心が悪に傾くように設計しておられたのだとしたら、人がそうなっているのを見て、神が人を造ったことを悔やまれるのはおかしな話です。ですから、神が人の悪の創造者ではないはずです。

 

創世記3章には、惑わすもの(サタン)が人を誘惑したことにより、人が初めて神の命令を破ってしまった瞬間が記録されています。そのときから、人は霊的に死にました。いのちの源である神への信頼を捨て、神の命令に背いたとき、人はいのちを失ったのです。霊的な枯渇です。また、神は霊的に死んでしまった人間の肉体が永遠に生き続けることを良しとされず、やがて人は死んで土に帰っていくようにされました。

 

初めの背きからの霊的な死のゆえに、人の心は悪に傾くようになってしまいました。肉体的な死は、人生全体に虚しさという暗い影をもたらしています。私たちは「二つの死」からの救いを必要としています。霊的な死からの救いと、肉体的な死からの救いです。神は、この救いを与えてくださいました。

 

2、信仰と礼拝〜神の愛への自発的応答〜

 

この救いを語る前に、もう一度ノアの時代に戻ります。愛情と期待を込めて人間と世界を造られたからこそ、世界が人間の悪と暴力によって支配されているのを見たとき、神は人を造ったことを悔やみ、人と生き物たちを地上から消し去ることを決意されました。しかし、ノアという人だけは、主の心にかなっていました。

 

「しかし、ノアはの心にかなっていた。これはノアの歴史である。ノアは正しい人で、彼の世代のただ中にあって全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。」(創世記6:8~9

 

どうしてノアだけが正しく、神とともに歩めたのかという疑問が出てくると思いますが、ここではそのことをあえて取り上げずに進みます。この箇所のメッセージの中心は、「神のさばき」と、「神のさばきからの救い」であることを覚えていただければと思います。

 

神は、大洪水によって世界をさばくことをノアに告げ、ノアと家族を救うため箱舟を造らせました。長さ132メートル、幅22メートル、高さ13メートルの大きさです。ノアと家族とひとつがいずつの動物たちがみんな乗って、大洪水の期間を生き延びるためには、これほどの大きさが必要でした。生半可な覚悟では造れなかったでしょう。しかし、ノアは神を信じたので、命令されたとおりに箱舟を造り、完成させました。

 

そのとき、はノアに仰せられました。

 

はノアに言われた。『あなたとあなたの全家は、箱舟に入りなさい。この世代の中にあって、あなたがわたしの前に正しいことが分かったからである。』」(創世記7:1

 

ノアが箱舟を造ったことで、ノアの正しさが証明されました。新約聖書でも、ノアの正しさが記録されています。

 

「信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神から警告を受けたときに、恐れかしこんで家族の救いのために箱舟を造り、その信仰によって世を罪ありとし、信仰による義を受け継ぐ者となりました。」(創世記11:7

 

少し難しい書き方がされていますが、要するに、「ノアは神のことばを信じて従ったことによって、正しい者と認められた」ということです。

 

この後、神は、すべてのきよい動物の中からと、空の鳥の中からも、雄と雌を7つがいずつ取ってくるように命じられました。他の生き物たちはひとつがいずつなのに、どうしてこれらは7つがいずつかと言うと、これらの生き物を神に捧げるためでした。いつ、どのように捧げるかは命じられていませんが、大洪水の後、ノアは祭壇を作り、その上でこれらを屠り、火で燃やして、全焼のささげ物として捧げました。これは、進んで捧げる礼拝です。

 

神は、自ら進んで捧げる礼拝を望んでおられます。「強制されてではなく、自ら進んで」ということが大事なことです。神は、うわべだけの愛ではなく、心からの愛を喜ばれます。人間同士もそうだと思います。うわべだけの関係ではなく、心から信頼し合える関係を喜びます。

 

神は私たちに信仰を強制されません。礼拝を強制されません。愛を強制されません。神は、私たちが自ら進んで神を信頼し、神を礼拝し、神を愛することを喜ばれます。だから、私たちが神を知り、自ら神に立ち返ることができるように、神はご自分を現し続けてくださっています。

 

この原稿を書いているとき、雹の混じった大雨が降り、雷が鳴り響いていました。家の中から窓に吹き付ける大雨と雹を眺めながら、神の大いなる御力を目の当たりにしていました。聖書には、これらの災害を通して、世界の悪に対する神の怒りが示されていると語っています。

 

「不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。」(ローマ1:18

 

科学の進歩により、雷や雹の仕組みが解明されています。ある人たちは、「科学で分かれば、もう神はいらない」と神の存在をこの世界から締め出そうとします。けれども、科学的説明ができることは、神が存在しない証拠とはなりません。科学で雷や雹の仕組みが分かったからといって、科学が雷や雹を造ったわけではありません。神が、先ほどこの大津の地に、雷や雹をもたらされました。あの雷や雹は、私たちに神の存在と力を示し、不義に対する神の怒りを示したのです。

 

しかし、神が示しておられるのは「怒り」だけではありません。同時に、神は「愛」を示しておられます。それは、私たちが神の愛を知り、自ら進んで神のみもとに立ち返り、神の愛に応えて生きるようになるためです。神の愛は、イエス・キリストの十字架によって、疑いようのない目に見えるかたちで、私たちに現されました。

 

「実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」(ローマ人への手紙5:6~8

 

キリストが十字架にかけられて死んだことはご存知の方も多いと思います。しかし、キリストが「あなた」のために死なれたということをご存知でしょうか。私たちはみな、自分の力では神さまの期待通りに生きることはできない罪人であり、天から示されている神の怒りの下にあります。キリストは、全く罪を犯さず、神を愛し、隣人を愛したお方です。このお方が、私たちの代わりに罪人とされて、神の怒りを受けてくださいました。それが、あの十字架なのです。

 

神はまた、キリストを死から復活させられました。キリストの弟子たちが、復活の証人です。復活されたキリストを目撃した弟子たちが、今も生きて働いておられるキリストの力によって、キリストの十字架と復活を宣べ伝えて回りました。キリストの生涯と十字架と復活について記されているのが、新約聖書の福音書です。このキリストによって、人は「二つの死」から救われます。霊的な死と、肉体的な死です。

 

「イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。』」(ヨハネの福音書7:38

 

霊的に死んでいる人、霊的に枯渇している人は、イエスの招きに応えませんか?イエスを信じるものは、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。いのちの源である神ご自身が、私たちの心の内に住んでくださるのです。そして、終わりの日、つまりキリストが戻って来られて、世界をさばかれるその日、私たちの死ぬべきからだは、キリストの復活のからだと同じからだに変えられます。また、すでに肉体的な死を迎え、キリストのもとにある人たちも、キリストと同じ朽ちないからだへと復活します。キリストを信じる者は、すでに死に対する勝利が与えられているのです。ハレルヤ。

 

3、最後まで信じ抜く

 

最後になりますが、ノアは大洪水が起こり、世界を大水が覆うようになるその日まで、神を信じ続けたので、無事に箱舟に乗って、生き残ることができました。

 

このノアの大洪水という、「神のさばき」と「神のさばきからの救い」から学び、私たちも、神がキリストによってこの世界をさばかれる日が来るというみことばと、キリストを信じる者はみな救われるという約束を、最後の最後のまで信じ続けて歩んでまいりましょう。

 

まだ神のことがよく分からないという方も、ぜひご一緒に神を知ることを求めていきましょう。神は求める者に必ず答えてくださるからです。また、分からないことがあれば何でも遠慮なしにお尋ねください。私たちが共に神の愛をさらに知ることができますように。