『神と共に歩む 〜信仰の旅路〜』 創世記5章

神は人間の罪深さに関わらず、人間と共に歩んでくださるお方です。創世記5章に登場する「エノク」という人物は、この神の恵みを信じて、神と共に歩んだ人でした。神は、エノクの信仰を喜ばれ、エノクを愛し、エノクに素晴らしい報いを与えてくださいました。神は、今日も永遠に変わらないお方です。

 

1、アダムの歴史

「これはアダムの記録である。」(5:1)

 

創世記5章には、アダムからノアまでの系図が記されています。アダム、セツ、エノシュと順番に書かれていて、全部で10世代です。アダムが神に造られてからノアが500歳になるまでの期間は、1556年です。

 

聖書に系図が記されている目的は、後の世代が系図を確認できるようにするためです。創世記は神話でなく、歴史的事実です。聖書は歴史的事実を書いていて、イエス・キリストの福音はこの確かな歴史を土台としています。

 

神が人を創造したことや、アダムが930年生きたことが記されていますが、これは進化論と矛盾しています。もし進化論が科学的事実であれば、聖書に書かれていることは事実ではないと言えるかもしれません。しかし、進化論は科学的事実として実証されているものではありません。今日、「科学的事実」と言われているものが、本当に実証されたものであるのか、注意して考える必要があります。専門家や科学者が事実だと言っているからといって、鵜呑みにするべきではありません。

 

2、アダムの子孫

「アダムは130年生きて、彼の似姿として、彼のかたちに男の子を生んだ。彼はその子をセツと名づけた。」(5:3)

 

アダムは、「彼の似姿」に男の子を生みました。アダムは「神の似姿」に造られましたが(5:1)、神の命令に背く罪を犯して、死ぬ存在となりました(3:17〜19)。つまり、アダムの子孫は、アダムの似姿として、神のかたちと共に、アダムの罪と死も受け継いでいます。

 

「アダムが生きた全生涯は930年であった。こうして彼は死んだ。」(5:5)

 

アダムとその子孫は、「生きて」、「生んで」、「死んだ」と書かれています。「生めよ、増えよ」という神の祝福(1:28)と共に、罪に対するさばきとして、「労苦」と「死」があります。

 

アダムはノアを見ることはありませんでしたが、ノアの父レメクが生まれた時にはまだ生きていました。つまり、9世代もの子孫を見ることができたということです。子孫が増え広がっていくことを見るのは喜びだっと思いますが、その930年の生涯は労苦と苦悩に満ちていました。

 

レメクは男の子を生んだとき、ノアと名付けて言いました。「この子は、主がのろわれたこの地での、私たちの働きと手の労苦から、私たちを慰めてくれるだろう。」(5:29)

 

アダムの罪によって大地は呪われ、人は一生の間苦しんで働き、糧を得なくてはならなくなりました。この毎日の労苦と共に、力による支配関係も生まれ、暴虐が社会に満ちていきました(創世記6章参照)。人は、この労苦と苦悩に満ちた世界を生きなくてはなりませんでした。

 

そして、ついには死んで、土のちりに帰らなくてはなりませんでした。からだが動かなくなり、心配の機能が停止して、土のちりに帰ってしまいます。人は、人間を永遠に生きる存在として造られました。しかし、罪の結果、死が入り、人を支配するようになりました。死生学という学問があったり、死に感する、科学的・哲学的な議論がありますが、聖書は、死とは罪に対するさばきであると明確に語っています。

 

アダムもカインも、セツも、エノクも、みな死を恐れていたはずです。死を克服することを願っていたことでしょう。けれども、みな死んでしまいました。ところが、エノクだけは、死にませんでした。神と共に歩んだからです。

 

3、神と共に歩む

「エノクは65年生きて、メトシェラを生んだ。エノクはメトシャラを生んでから300年、神とともに歩み、息子たち、娘たちを生んだ。エノクの全生涯は365年であった。エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」(5:21〜24)

 

エノクのことは「生きて、生んで、死んだ」ではなく、「生きて、生んで、神とともに歩み、生んで、いなくなった」と書かれています。しかも、エノクの生涯は365年と、他の人たちよりの半分以下の短さです。つまり、エノクは生涯の半ばで、神に取られて、死を見ることなく、神のもとに移されたということです。

 

エノクは生きて、神とともに歩みながら、子どもたちを生みました。その喜びを彼はたくさん経験できました。そして、地上の生涯の苦労や苦悩をそれ以上味わうことがないように、また死という苦しみを経験しなくてよいようにされました。これは、エノクに対する神の素晴らしい報いです。なぜ、神はエノクにだけ、このようにしてくださったのでしょうか。それは、エノクが神とともに歩んだからです。

 

新約聖書、ヘブル人への手紙にこう書かれています。「信仰によって、エノクは死を見ることがないように移されました。神が彼をうつされたので、いなくなりました。彼が神に喜ばれていたことは、移される前から証しされていたのです。信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられること、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」(ヘブル11:5〜6)

 

神とともに歩むとは、信仰によって生きることです。それは、「神がおられること」と、「神がご自分を求める者は報いてくださる方であること」を信じて生きることです。神はこのような信仰を喜ばれます。

 

エノクも他の人たちと同じ罪人でした。アダムの子孫として、アダムの罪と死を受け継いでいます。けれども、エノクは、そんな罪人とともに歩んでくださる神の恵みを知りました。だから、エノクは神を信じて、祈り、神の恵みによって生きたのです。

 

神は今も永遠に変わらないお方です。神は、定められた時に、ご自分の御子をこの世界に人間として遣わしてくださいました。イエスは罪人の中にともに歩まれ、罪人を愛し、罪人を救うために、罪を代わりに負って、罪の罰を十字架の上で受けてくださり、死んでくださいました。

 

「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。」(テモテへの手紙第一1:15)

 

イエスはご自分の死によって死を滅ぼし、復活によって永遠のいのちと不滅を明らかに示してくださいました。(テモテへの手紙第二1:10)

 

今日も、恵み深い神は私たちとともに歩んでくださいます。私たちの祈りに喜んで答えてくださいます。そして、主イエス・キリストが大いなる報いを携えて、天から地上に来てくださる時、キリストご自身の朽ちない、栄光ある、力強いからだによみがえらされ、朽ちることのない天の御国を受けつぎます。

 

さあ、イエス・キリストの恵みを信じて、イエス・キリストの名によってあらゆることを父なる神に祈りつつ、キリストが来られる時に与えられる素晴らしい報いを待ち望みがら、今日も神とともに歩ませていただきましょう。

 

神は今日もともに歩んでくださいます。

 

主の恵みと平安が豊かにありますように。