『弱さを認めて、神に祈る』 創世記4章17〜26節

人は多くの富や力を手にすると、自分が何者かになったかのように錯覚してしまいます。けれども、本当は、誰もが弱い人間です。いのちの限りがあり、やがては死に、富は一瞬のうちに消えてしまいます。しかし、神は私たちを死から救い、永遠の富を与えてくださるお方です。

 

 

1、虚しい繁栄

①カインの願い

カインは弟アベルを殺した後、神の憐れみ深い呼びかけにも応えないで、罪を悔い改めることなく、神から離れ去ってしまいました。カインが新しく住み始めた土地は、エデンの東の「ノデ(さまよう)の地」でした。

 

創世記3:24によると、エデンの園の東に園への入り口があったのではないかと思われます。おそらく、カインは、永遠に生きるために、エデンの園に入って、そこにあるいのちの木から取って食べようとしていたのかもしれません。しかし、その入り口は、ケルビム(翼の生えた天の使い。出エジプト記25:18〜22参照)と炎の剣によって守られていたので、カインは園に入ることができませんでした。

 

カインは自分がやがて死ぬことを知っていました。また、息子のエノクも死ぬことを知っていました。永遠のいのちを欲してエデンの東に住んでも、それを得ることはできませんでした。だから、息子エノクが生まれたとき、息子が死んでもなお、息子の繁栄が永遠に続くようにという願いを込めて、当時建てていた町に息子の名前をつけたのではないでしょうか。しかし、カインの願いは叶わず、今日、この町はもう残っていません。

 

「永遠のいのち」や「不老不死」は、カインの時代から今日に至るまで変わらない、人類の普遍的な願いです。しかし、歴史を通しても示されていることは、人間は自分でそれらを得ることはできないということです。すべての人はやがて死ぬのです。

 

「人は死ぬために生まれる」とある生物学者が言っています。遺伝子の中に「死」があらかじめプログラムされているそうです。けれど、聖書によれば、死は最初からあったものではありません。神は人を永遠に生きる存在として造られました。そのために、いのちの木を園の中央に置いておられたのです。しかし、神は同時に、神の命令を破り、善悪の知識の木から取って食べるとき、「必ず死ぬ」と告げておられました。死は、人の罪に対する報酬であり、結果なのです。

 

②レメクの願い

カインの子孫から、レメクという人物が生まれました。彼は繁栄を手にしたことによって、高ぶり、他の人間のいのちを軽んじるようになりました。しかし、彼自身も、死を免れ得ない一人の人間に過ぎませんでした。

 

まず、レメクは二人の妻を迎えました。創世記2:24によれば、男はただ一人の妻を迎えるべきでした。しかし、レメクは神の掟を破り、二人の妻を迎えたのです。彼にとっての結婚は、もはや人格的な愛の交わりではなく、自らの富や権力を増大させるための手段であり、妻はそのための道具に過ぎませんでした。創世記3:16に書かれている呪いの結果ですが、男性が女性の人格を軽んじ、力を持って支配するようになってしまった現実が描かれています。人が、神を認めず、神の教えに従わず、欲望のままに生きるなら、道徳的に腐敗し、弱い立場にある人々、特に女性や子供たちが被害を受けるようになります。

 

新約聖書、テモテへの手紙6:9〜10にこうあります。

「金持ちになりたがる人たちは、誘惑と罠と、また人を滅びと破滅に沈める、愚かで有害な多くの欲望に陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは金銭を追い求めたために、信仰から迷い出て、多くの苦痛で自分を刺し貫きました。」

 

これは人ごとではありません。私たちも、金銭を愛していないでしょうか。金銭を愛することが、あらゆる悪の根です。私たちは気をつけなくてはなりません。

 

され、レメクの思惑通りでしょうか。彼は二人の妻によって、優秀な子供たちを得ました。息子たちは、牧畜、芸術、技術の仕事の先駆者となり、文明の発展に大きく貢献しました。レメクは、彼らの繁栄を通して、莫大な富と権力を手にすることができたに違いありません。

 

すると、レメクは高ぶり、力によってすべての人間の上に立とうとしました。たとえ子供であっても、自分に危害を加えるなら容赦無く殺すほどの暴君です。

 

「レメクは妻たちに言った。『アダとツィラよ、私の声を聞け。レメクの妻たちよ、私の言うことに耳を傾けよ。私は一人の男を、私が受ける傷のために殺す。一人の子どもを、私が受ける打ち傷のために。カインに7倍の復讐があるなら、レメクには77倍。』」(創世記4:23〜24)

 

レメクは自分を何者だと考えていたのでしょうか。他の人のいのちを虫けらのように扱っています。さらに、自分のことを、町の創設者であり先祖であるカインよりも、はるかに偉大な存在だと考えています。しかし、本当の彼の姿は、ただの人間です。死の恐怖に支配されている一人の弱い人間に過ぎないのです。

 

今日の世界にあっても、レメクのような人物が存在します。富や権力を手にしたものたちが、高慢になり、人々を見下し、不正や暴力によって、貧しい人たちからさらに奪い取っています。彼らの富と権力は、死と共に消えて無くなるものです。それにも関わらず、彼らの思いと行いは変わりません。コロナウイルスが蔓延している状況であっても、変わらないのです。

 

2、永遠に続くいのちと栄光

時は少しさかのぼりますが、カインがアベルを殺した後、神はアダムとエバに新しい男の子を授けてくださいました。エバはその子をセツと名付けて、「神がアベルの代わりに別の子孫を私に授けてくださいました」と言いました。エバは神の約束を信じて、そこに望みを置きました。

 

創世記3:15には、人に罪を犯させ、死をもたらしたサタンに対する、神の宣告が記されています。「わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ」。これは、やがて、女の子孫が、サタンを滅ぼし、死に支配された人々が解放される時が来る、という約束です。

 

エバは、セツを「その子孫」だと信じました。このセツの子孫から、やがてサタンを滅ぼす「子孫」が生まれることになります。

 

さて、セツにも子どもが生まれました。そのころから、人々は主に祈ることを始めました。人々は何を祈ったのでしょうか。食べ物、住まい、病気、仕事、人間関係のことなど、生活の場で色々なことを祈ったと思います。彼らは、カインとその子孫たちのように神を離れて自分の力や繁栄を誇るのではなく、自分の弱さを認めて、へりくだって神により頼みました。

 

旧約聖書の箴言3:34に、「嘲る者を主は嘲り、へりくだった者には恵みを与えられる」とあるように、へりくだって神により頼むことを、神は喜ばれるのです。神は、彼らの祈りを喜んで聞いてくださっていたことでしょう。しかし、創世記の続きを読むならば、神に祈る人々は増え広がっていったわけではないことが分かります。創世記6章を読むと、それから1500年ほど後の時代に、神の心にかなっていた人物は、ノア一人だけだったと書かれているからです。つまり、神なき世界、不信仰な世界に、信仰者たちは飲み込まれていったのです。

 

「ある人たちは金銭を追い求めたために、信仰から迷い出て、多くの苦痛で自分を刺し貫きました」(第一テモテ6:10)と書かれているように、富の誘惑に負けて、信仰から迷い出てしまったのでしょう。このことは、人がどれほど富の誘惑に弱い存在であるかを教えています。これを読んでいる私たち一人一人も、神様よりも、この世界の富や力を追い求めてしまう罪人です。すぐに、信仰から外れてしまう弱い存在です。そのことを認めましょう。自分は強いなんて思ってはなりません。

 

しかし、神は強いです。神だけは正しく真実なお方です。神は約束されたことを、必ず実現してくださいます。たとえ、この世界がどれだけ不信仰であり、不真実であっても、です。

 

エバが信じた約束を、神は長い年月の後に実現してくださいました。神は、「女の子孫」として、神であられるご自分の御子を、人間としてこの世界に遣わしてくださいました。

 

新約聖書、ヘブル人への手紙にこうあります。

「子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷として繋がれていた人々を解放するためでした。」(ヘブル2:14〜15)

 

ここに書かれていることはこういうことです。

イエスは人となられた。

ご自分の死によって、サタンを滅ぼした。

そのことによって、死の恐怖に繋がれていた人々は解放された。

 

なぜ、イエスの死がサタンを滅ぼすことになったのでしょうか。それは、死が罪に対する報酬だからです。罪のないイエスさまが私たちの罪を背負って、その罪の報酬である死を代わりに受けてくださったことで、私たちは死から解放されます。

 

新約聖書、コリント人への手紙第二にこう書かれています。

「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」(5:21)

 

これは素晴らしいニュースです。世界で一番衝撃的であり、同時に素晴らしい喜びの知らせです。イエスさまが私たちのために罪とされて十字架にかかってくださいました。そのことによって、私たち信じる者は、神の義となりました。

 

「神の義となる」ことは、完全に罪を赦されると共に、完全に正しい者として認められることです。この信仰による義が与えられたからこそ、私たちは神のすべての祝福と永遠の栄光を受けることができるようになりました。ハレルヤ!

 

そして、イエスは死んで墓に葬られた後、復活されました。だからこそ、私たちは復活と永遠のいのちとを信じることができます。

 

新約聖書、テモテへの手紙第二にこうあります。

「キリストは死を滅ぼし、福音によっていのちと不滅を明らかに示されたのです。」

(1:10b)

 

イエスさまは、ご自分が死から救い出されることを信じていました。それで、不信仰な世界の只中にあって、信仰のゆえに迫害と苦しみを受け、十字架刑に処せられても、イエスさまは、主に祈り続けました。このイエス姿こそ、神が喜ばれる信仰者の姿でした。

 

「キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。」(ヘブル5:7)

 

神は、キリストの祈りを聞き入れられ、キリストを死から救い出されました。

 

おわりに

人はどれだけ富を得ても、死には打ち勝てません。しかし、神は人を死から救い出してくださるお方です。そのために、イエスさまが私たちの罪のために死んで、よみがえられました。

 

2019年のイースターの日(復活祭)、スリランカで教会を狙った爆破テロが起きました。200人以上の方々がいのちを落としました。彼らはイエス・キリストの道を辿ったのです。イエスが信仰のゆえに死に、信仰のゆえに復活されたように、彼ら彼女たちもまた、キリストにあって復活し、永遠の富を受け継ぎます。同じ信仰に召された私たちもそうです。

 

神は私たちを助けてくださいます。キリストは私たちと共に苦難の中を歩んでくださいます。聖霊は私たちのうちに住まわれ、私たちの信仰と祈りを励まし導いてくださいます。どうか、この神の愛と恵みに支えられて、弱さを認めてへりくだり、神に絶えず祈る私たちでありますように。