『惑わす者 〜キリストが道、真理、いのち〜』 創世記3章1〜13節

1、惑わす者

ある嘘つきが、あなたにそーっと近づいて来て、こう言いました。「君のために話しておいた方がいいことがあるんだけど、ちょっといい?実は、君の親友のAさんが、さっき君の悪口を言っていたよ。君と仲良いふりしているけど、本当は全部演技なんだって。だから、もうAさんとのことは信用しない方がいいよ。裏切られて傷つく前に、自分から離れた方がいいよ。」

 

もし、あなたがこの嘘を鵜呑みにしてしまったら、Aさんへの信頼が崩れ去ってしまうと思います。この嘘つきは、「君のため」と言いながら、本当の目的は、あなたとあなたの親友の信頼関係を打ち壊すことでした。

 

今日の聖書箇所には、嘘つきが出て来ます。それは、この世の中に存在するすべての嘘つきの元凶です。この嘘つきの目的は、すべての良い関係を打ち壊すことです。それは、神と人との関係、また、人と人との関係です。

 

「さて蛇は、神である主が造られた野の生き物のうちで、他のどれよりも賢かった。蛇は女に言った。『園のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。』(創世記3:1)

 

蛇は賢さを利用して、女を惑わし、神への信頼を失わせようとしました。ここで、蛇は神のみことばを意図的に捻じ曲げて話しています。神の本当のみことばは、「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べて良い」(創世記2:16)でした。このみことばには、神の人に対する愛と寛大さが表れています。ところが、蛇は女に対して、「神は厳しくて、あなたに良いものを与えることを拒んでおられるお方」だという印象を与えようとしました。

 

「女は蛇に言った。『私たちは園の木の実を食べてもよいのです。しかし、園の中央にある木の実については、「あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ」と神は仰せられました。』」(創世記3:2〜3)

 

女の神に対する信頼が揺らぎ始めています。女は、「園のどの木からでも思いのまま食べて良い」と言われた神の寛大さを忘れ、単に「園の木の実を食べて良い」とだけ言いました。また、善悪の知識の木については、「それに触れてもいけない」という言葉を勝手に付け加えて、神の厳しさを誇張しました。さらに、女は「必ず死ぬ」という神の厳格なみことばを、「死ぬといけないからだ」と言い換えて、神の厳格なみことばを曖昧にしようとしました。

 

神への信仰、それは神がおられることや、神が万物の創造主であられることを信じることだけではありません。神のみことばをまっすぐに信じることであり、また、神が良いお方であり、私を愛しておられることに信頼することです。この意味で、女の信仰は危機に陥りました。その様子を見て取って、蛇はとどめの一言を言いました。

 

「すると、蛇は女に言った。『あなたがたは決して死にません。それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。』」(創世記3:4〜5)

 

「あなたがたは決して死にません」と、神のみことばを明確に否定しました。つまり、神は「嘘つき」としたのです。ここで蛇が言おうとしていることは、「神はあなたに賢くなってほしくないから、嘘をついているのだ」ということです。女は蛇の嘘を信じてしまいました。すると、自分を賢くしてくれるその木の実が、欲しくてたまらなくなりました。

 

「そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた。」(創世記3:6)

 

蛇の嘘を信じてしまった女は、もはや神と神のみことばを信頼せず、神の命令を捨てて、「神のように賢くなりたい」という欲望のままに突き進んでいきました。夫は妻を助けるべきでしたが、夫もまた、妻の言葉に従って自ら神に背き、ふたりそろってその実を食べてしまいました。

 

蛇は、「神のように賢くなること」を最高に良いことのように思わせましたが、それは良いことではなく、罪であり、人を死をもたらすものでした。創世記1章と2章を通して、神は初めからおられるお方であり(永遠に存在されるお方)、絶対的主権者であり(御心のままにすべてを成し遂げるお方)、万物の創造者であられることを教えられます。一方、人は神に造られた被造物であり、神によっていのちの息を与えられて生かされているに過ぎない存在だとも教えられます。それなのに、人が神のようになろうとすることは、愚かであり、高慢です。新約聖書にこう書かれています。

 

「同じように若い人たちよ、長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身につけなさい。『神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる。』」(第一ペテロ5:5)

 

どんな立場にいる人も、思い上がることなく互いに謙遜になり、ともに神の前にへりくだるようにと書かれています。自分が神のようにすべてを知っていると思うことや、自分には神のようにすべてを知る権利があると思うことは、神に対する高ぶりであり、自分が何者かを履き違えています。私たちは、人として、神の前にへりくだるべきです。神はへりくだった者に、必ず恵みを与えてくださいます。

 

しかし、ふたりは高ぶってしまいました。その結果は、実に痛々しいものでした。

 

「こうして、ふたりの目は開かれ、自分たちが裸であることを知った。そこで彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちのために腰の覆いを作った。」(創世記3:7)

 

ふたりは神の命令に背いたと同時に、善悪を知りました。つまり、この瞬間、自分の悪を知ったのです。それは、もともとあったものではなく、またあってはならないものです。あってはならないことをしてしまった。また、あってはならないものを心に宿してしまった。だから、ふたりは必死になって自分を隠そうとしました。このことは、人間同士の間の恥の意識にとどまらず、神に対する恐れとなって現れました。

 

「そよ風の吹くころ、彼らは、神である主が園を歩き回られる音を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した。」(創世記3:8)

 

ふたりは神を恐れて、隠れました。蛇の嘘によって、人は神との全き関係を失い、人と人との全き関係を失いました。蛇の目的は達成されてしまったのです。

 

この蛇は、悪魔であり、偽り者であり、人殺しであると聖書に書かれています。また、この悪魔は今も嘘で世界を支配していて、神に従わないすべての人のうちに働いています。「神は良いお方ではない。神は愛ではない。神は助けてくれない。神は罪をさばかない。神なんていない。人は神に従わないで、自分の好きなように生きることが幸せだ。」と多くの人が信じてしまっています。しかし、これらは、神との関係を打ち壊し、いのちの源である神から人を引き離す、悪魔の偽りなのです。

 

皆さんは、神に信頼し、神のみことばに従っていますか?

 

2、悔い改めを呼びかける神

神に自ら背いた人間を、神自らが追い求めてくださり、関係を回復しようと、悔い改めを呼びかけてくださいました。

 

しかし、ふたりは神を恐れて隠れてしまいました。それでも、神はあきらめず、人に呼びかけてくださいました。

 

「神である主は、人に呼びかけ、彼に言われた。『あなたはどこにいるのか。』彼は言った。『私は、あなたの足音を園の中で聞いたので、自分が裸であるのを恐れて、身を隠しています。』主は言われた。『あなたが裸であることを、だれがあなたに告げたのか。あなたは、食べてはならない、とわたしが命じた木から食べたのか。』」(創世記3:9〜11)

 

神は全知全能で、人がどこにいるのか、また、人が何をしたのかをすべてご存知でした。けれども、人が自分から神の前に出てきて、自分の犯した罪を正直に認めて、悔い改めることを神は望まれ、その機会を与えてくださいました。しかし、人は素直に悔い改めることができず、女に責任転嫁しました。

 

「人は言った。『私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。』」(創世記3:12)

 

私たちも罪を人に責任転嫁してしまうことがないでしょうか。「自分ではなくて、あの人が悪い」と責任逃れしてしまうことはないでしょうか。この人の姿は、私たちそのものなのです。さらに、人は、神にまで責任転嫁しています。これは、本当に愚かなことです。しかし、私たちは、いつも神に責任転嫁しているのではないでしょうか。

 

女も、蛇のせいにしました。

 

「神である主は女に言われた。『あなたは何ということをしたのか。』女は言った。『蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べました。』」(創世記3:13)

 

私たちも悪魔に惑わされて罪を犯してしまうことがあります。悪魔は悪いです。しかし、罪を犯した私たちも悪いのです。

 

罪を犯したなら、他人や、神や、悪魔のせいにするのではなくて、自分の罪をまっすぐに認めて、神に悔い改めなくてはなりません。

 

それでも、ふたりは悔い改めることができなかったのです。そうです。私たちも同じなのです。自分自身の思いだけでは、罪を正直に認めて、悔い改めることができないのです。

 

けれど、神にはできるのです。神は私たちの頑なな心を造り変えて、自ら進んで悔い改める者とされるのです。神は、偽りで支配され、神から離反しているこの世界のただ中に、ご自分の御子を遣わしてくださいました。人は、このお方を通して、神のもとに帰ることができるのです。イエスは仰せられました。

 

「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。』」(ヨハネの福音書14:6〜7)

 

イエスは道であり、真理であり、いのちです。神への道、神の真理、神のいのちそのものなのです。なぜなら、イエスは神の御子であり、イエスと父なる神は一つだからです。

 

神を知ること、イエスを知ること、それすなわち永遠のいのちです。

 

「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネの福音書17:3)

 

イエスは、天におられる父のみもとを離れて、罪人を探して救うために、人となってこの地上に来て下さいました。それは、私たちに神の真理を説き明かし、私たちの罪のために十字架にかかっていのちを捨てることによって、私たちを悔い改めへ導くためでした。

 

だから、イエスさまを信じるなら、罪を赦されて、神のもとに帰ることができるのです。

 

これが神の愛です。これほどに大きな愛はありません。神は良いお方で、私たちをこれほどまでに愛しておられるお方なのです。同時に、十字架によって示されたように、神は罪を裁くお方です。ですから、神はすべての人に悔い改めを呼びかけておられます。

 

イエスを信じて、罪を悔い改めて、神の赦しと永遠のいのちを受け取ってください。もうすでにイエスを信じている人は、罪の赦しと永遠のいのちを受け取っています。ですから、そのことを認めて、感謝しつつ、罪を犯したなら、神の赦しと愛の中で、罪を告白し、悔い改め続け、神を信頼し、神のみことばに従って歩んでまいりましょう。

 

「神は、実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書3:16)

 

「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(第一ヨハネ1:9)