『神の命令〜キリストによって与えられるいのち〜』創世記2章4〜17節

「神である主は人を連れて来て、エデンの園に置き、そこを耕させ、また守らせた。神である主は人に命じられた。『あなたは園のどの木からでも思いのまま食べて良い。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。』」(創世記2:15〜17)

 

1、神の命令

神は人を造り、エデンという場所に園を設けて、そこに人を置かれました。それは、エデンの園を耕させ、また守らせるためでした。

 

エデンの園は湧き出ている川によって潤されていて、多くの実りと収穫が期待できる土地でした。また、神はそこに、見るからに好ましく、食べるの良いすべての木を生えさせておられました。そのため、人は大きな期待をもって土地を耕し、そして働いた後には、喜びと充実感を持って食を楽しむことができたと思います。

 

同時に、神は人に命令を与えられました。それは、神が園の中央に生えさせている、「善悪の知識の木」に関係するものでした。園には食べるのに良いすべての木とともに、中央には「いのちの木」と「善悪の知識の木」が生えていたのです。神は人にこのような命令を与えました。

 

「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べて良い。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:17)

 

「善悪の知識の木」という名のとおり、その木から食べるなら、人は善悪の知識を得ることができました。しかし、その代償として人は必ず死んでしまいます。人がたとえ善悪の知識を得ても、死んでしまったら何の益にもなりません。

 

当然、人は神の命令を守り、生きるべきでした。

 

私たちは、「なぜ神は善悪の知識の木を生えさせたのか?」、「なぜ神はこのような命令を与えたのか?」と考えます。自分が持っている判断基準に従って、その答えを出そうとします。けれども、「なぜ?」と問う前に、この事実をまっすぐに受け止める必要があるのではないでしょうか。神を自分の理解にはめ込もうとするのではなく、聖書によって神を知るのです。なぜなら、神は聖書を通して、ご自分を啓示してくださっているからです。

 

神は人にこの命令を与えました。人は、この命令に従うかどうかを決断する自由が与えられていました。

 

2、人の背き

結局、人は命令を破ってしまいました(創世記3章)。人が善悪の知識の木から食べてしまったとき、ふたりの目は開かれ、善悪を知るようになりましたが、同時に、人は死にました。神との交わりが失われ、妻との交わりが崩壊し、大地は呪われ、人の労苦は空しくなり、苦しんで食を得て、最後には土のちりに帰る存在となってしまいました。

 

人は失ってはじめて気づくことがあります。このときも、人は失って初めて、「いのち」の素晴らしさを知ったことでしょう。また、いのちを失って初めて、「死」の悲惨さを知ったことでしょう。

 

神は人をエデンの園から追放し、エデンの園に入って、いのちの木からも取って食べることができないようにされました。もう、人は自力でいのちを買い戻すことはできなくなってしまったのです。

 

創世記には、この後の人間の歴史が記されています。神のいのちと祝福から離れてしまった人間たちの歩みは悲惨なものでした。ところが、神はアブラハムという一人の人物を選び、「地のすべての部族は、あなたによって祝福される」と約束されました(創世記12:3)。神の命令を破って、死んでしまい、祝福を失ってしまった人間たちを、神ご自身がもう一度祝福してくださるという約束です。なんと希望に満ち溢れた約束でしょうか。この約束は、神の人に対する一方的な恵みです。神は恵み深く、憐れみ深いお方なのです。

 

 

3、イスラエルの背き

神はアブラハムを祝福し、その子孫を増やし、イスラエルという民をお造りになられました。神はアブラハムと結ばれた約束とは別に、律法をイスラエルに与えられました。それは、彼らが神の民として従うべき神の命令でした。イスラエルは、神の命令を守って生きるか、神の命令を破って死ぬかを決断する自由が与えられていました。最初の人アダムのときと同じです。

 

「見よ、私は確かに今日あなたの前に、いのちと幸い、死とわざわいを置く。もしあなたが、私が今日あなたに命じる命令に聞き、あなたの神、主を愛し、主の道に歩み、主の命令と定めを守るなら、あなたは生きて数を増やし、あなたの神、主は、あなたが入って行って所有しようとしている地で、あなたを祝福される。しかし、もしあなたが心を背け、聞き従わず、誘惑されてほかの神々を拝み、これに仕えるなら、今日、私はあなたがたに宣言する。あなたがたは必ず滅び失せる。あなたがヨルダン川を渡り、入って行って所有しようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くことはない。」(申命記30:15〜18)

 

イスラエルが主を愛し、主の命令を守るなら、彼らはいのちと幸いを受けることができました。しかし、主に背き、主の命令を破るなら、彼らは死とわざわいを受けることになりました。結局、彼らは約束の地に入ってその地を所有した後、堕落して、神との契約を侮り、神の命令を破るようになって、ついには滅ぼされてしまいました。

 

アダムと同じように、イスラエルもまた、神の命令を破って、死を選んでしまったのです。これは、アダムとイスラエルだけのことではありません。世界中のすべての人が神に背いて、同じ罪の中に死んでしまっているのです。

 

神との交わりが失われ、夫婦関係、親子関係、人間関係が崩壊し、労働は苦しく空しくなり、貧富の格差が生じ、富む者が貧しい者を支配して搾取し、富む者も貧しい者も、やがては同じように土のちりに帰るのです。

 

一見華やかに生活を送っているような人たちであっても、実は深い孤独感や恐れ、空しさが心を満たしています。神でない何かに依存しながら、自分の罪や恥を隠しながら、やっとの思いで生きているのです。そのような人生は、神のいのちと祝福に溢れた人生ではありません。深い死の闇に覆われた人生です。私の人生も深い闇に覆われていて、何の希望も持てませんでした。

 

どこに、いのちがあるのか?どこに行けば、いのちを得られるのか?

たくさんの人が叫んでいます。そして、多くの人たちが、「いのち」を見出せずに、自らいのちを断ってしまっているのです。

 

 

4、キリストによって与えられるいのち

神は憐れみ深く、恵み深いお方です。神はアブラハムに、「地のすべての部族は、あなたによって祝福される」と約束されたお方です(創世記12:3)。人がどれだけ神に背いても、イスラエルがどれだけ神に背いても、神は変わらないお方です。神は約束を守られる真実なお方です。

 

神は、アブラハムの子孫として、キリストを遣わしてくださいました。地のすべての部族は、このキリストによって祝福を受けることができるのです。日本人も韓国人も中国人もみんなです。

 

なぜなら、イエス・キリストが、私たちの背きの罪のために、私たちの代わりに呪いを受け、十字架にかかって死んでくださったからです。

 

聖書にはこう書かれています。

 

「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。『木にかけられた者はみな、のろわれている』と書いてあるからです。それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人(ユダヤ人以外のすべての部族)に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。」(ガラテヤ人への手紙3:13〜14)

 

これが福音です。私たちに与えられた素晴らしく良い知らせです。罪のない正しいお方が、私たちのためにのろわれた者となって十字架にかかってくださったことによって、背きの罪の中に死んでいた私たちを贖い出してくださいました。そのようにして、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって、すべての部族に及び、信仰によってすべての人が約束の御霊を受けるようにしてくださったのです。

 

つまり、イエス・キリストを信じる者は、「いのち」が与えられるのです。アダムが神の命令を破って以来、すべての人が死んでしまい、二度と買い戻すことができなくなってしまったいのちが、今、キリストを信じる者に無償で与えられるのです。これこそ、福音です。驚くべき神の恵みです。

 

キリストによって救われ、使徒とされたパウロはこう書いています。

 

「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。」(ガラテヤ人への手紙2:20〜21)

 

皆さん、この告白は、キリストを信じるすべての人にとって真実です。キリストの義が私に与えられています。キリストの義によって、私は生きているのです。つまり、神との交わりが回復されているのです。このいのちは、私の行いによって得たものではありません。自分の良い行いや従順によって、いのちを得られる人は一人も存在しません。ただ、神の御子に対する信仰によるのです!私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子イエス・キリストを信じる信仰によるのです!

 

主にある兄弟姉妹、これがキリストの死によってもたらされた神の恵みです。神の恵みを無駄にはしてはなりません。キリストの死を無意味にしてはなりません。信じましょう。信じ続けましょう。この福音を共に語り合い、賛美し続けましょう。

 

 

5、キリストだけがいのち

キリストによっていのちを与えられた者は、そのいのちを生きなくてはなりません。罪によって支配されていた古い自分に対して死に、罪によって支配されている世界に対して死ななくてはならないのです。

 

キリストはいのちであるゆえに、罪の世界に憎まれ、殺されました。しかし、キリストはいのちであるゆえに、死から復活されました。だれもキリストからいのちを取り去ることはできません。なぜなら、キリストはいのちだからです。

 

キリストを信じ、キリストに従う者は、罪と罪の世界に対して死ななくてはなりません。しかし、キリストのためにいのちを失う者は、いのちを見出すのです。

 

「それからイエスは弟子たちに言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれの行いに応じて報います。まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、人の子が御国とともに来るのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。』」(マタイ16:24〜28)

 

キリストのみがいのちです。この世界のどこを探しても、他にいのちは見出せません。キリストに従っていのちを見出すか、それともキリストに従わないでいのちを失うか、神はすべての人に決断の自由を与えておられます。

 

キリストは、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来られます。その日、すべての人は、永遠のいのちを受けるのか、永遠の死を受けるのか、どちらかです。

 

そして、永遠のいのちを受け取る者だけが、天の御国に入れられるのです。